ホンコンシティの一場面
––– ティターンズ軍のフォウ・ムラサメが操縦するサイコガンダムがホンコンシティの街を滅茶苦茶に破壊する。それを阻止しようと、エウーゴ軍のカミーユ・ビダンがガンダムMk.Ⅱに乗ってサイコガンダムに攻撃を仕掛け、そのまま2体は戦闘態勢に入る。一方、地上では、その戦いを冷静に見ているアムロ・レイ。
僕は「Zガンダム」の中でもこの場面が大好きだ。思い出しただけでもゾクゾクしてしまう。
といっても、この場面では戦いの決着がつくわけではないし、特段派手な出来事が起こるわけでもない。ではどうしてこの場面が大好きなのか。
ひとつは、この後に繰り広げられる「悲劇」の全てがここから始まるから。
もうひとつは、アニメ『機動戦士ガンダム』、『機動戦士Zガンダム』、『機動戦士ダブルゼータガンダム』、そして劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』からなるいわゆる「宇宙世紀シリーズ」の結末までを含んだ壮大なストーリーが、この場面をきっかけに、大きく躍動するから。
2分でわかる!「アムロとカミーユ」
少し落ち着こう。
そもそも「機動戦士Zガンダム」を見たことがない人のために、なるべく固有名詞を使わないようにしたいが、人名と若干の用語については使わざるを得ない。また、ゼータは前作に当たる「機動戦士ガンダム」から継承している要素が多いので、余計に分かりづらいのかもしれない。
そこで、ここではアムロ・レイとカミーユ・ビダンの「悲劇」を中心に紹介したい。
アムロ・レイの悲劇
アムロ・レイの名を聞いたことのある人は、比較的少なくないのではないか。「ガンダム」を見たことがなくても、お笑い芸人の若井おさむがアムロのモノマネをしてバラエティ番組に出演しているのを見たことがある人はいるだろう。
アムロは、宇宙世紀0079の一年戦争で、16歳にして連邦軍の新型モビルスーツ(言うなれば、人の形をした強力な戦車)「ガンダム」を乗りこなし、一躍、連邦軍のエースパイロットとなる。少年独特の研ぎ澄まされた感覚は「ニュータイプ」(言葉そのものは新世代というほどの意味だが、宇宙で生まれ育ったことが大きく関係しているらしいと言われている。物語中にも明らかにはされない)と呼ばれ持て囃された。
アムロの悲劇は、敵軍ジオン軍の少女パイロットであるララァと強く惹かれ合い恋に落ちるが、シャアとの激しい戦闘の中で自らララァを殺してしまったこと。そのため、アムロは一年戦争の後、鬱屈した気持ちのまま幽閉生活を送ることになる。
そのアムロが、7年越しに悲しみやトラウマを克服し、再びモビルスーツのパイロットとして宇宙へ向かうこととなったきっかけは、ホンコンシティで、カミーユとフォウの戦闘を目撃したこと。
アムロについては他にも色々とエピソードが多いが、今回はカミーユに関連する形での紹介なので、ララァとの悲劇的な出来事があったことだけを強調しておくにとどめる。
カミーユ・ビダンの悲劇
さて、「機動戦士Zガンダム」の主人公であるカミーユの悲劇は大きい。
カミーユは、一年戦争の7年後、グリプス戦役と言われる期間、17歳にしてガンダムMk.Ⅱを乗りこなし、「アムロの再来」と称される。鋭敏にして繊細な感覚は、最強のニュータイプとも言われるほどの戦闘能力として発揮される反面、物語のラストではその敏感さがアダとなり、精神崩壊を引き起こしてしまう原因ともなる。
カミーユの精神が崩壊するに至るまでの悲劇は、敵軍パイロットのフォウ・ムラサメとの出会いから始まる。フォウは精神操作などの非人道的な実験によってニュータイプとして作り上げられた強化人間。人造ニュータイプと言っても良いだろう。フォウは戦闘中と平常時では人格が分裂している。カミーユとフォウは、まさかお互いが敵同士のパイロットとは知らず、強い感覚によって惹かれ合い、そのまま甘い恋に落ちる。しかし、戦闘中のフォウは破壊と殺戮に自らを駆り立てる全くの別人格。キリマンジャロでエウーゴとティターンズが衝突した際に、精神不安定な状態で無差別攻撃を繰り返すフォウをカミーユは懸命に止めようとするが、様々なことが起こり、結局、フォウはカミーユの腕の中で息をひきとる。
最愛の人…と言うには未熟で甘酸っぱい類の関係のふたりではあるが、それだけに少年カミーユは、かえって甘美な悲劇の世界に深く陶酔してしまう。こののちにも、フォウと同じく強化人間の女性パイロットロザミア・バダムと出会い、やはり戦闘の中でモビルスーツもろともロザミアにトドメを刺すこととなり、トラウマは深みを増す。こうしてカミーユは、フォウの亡霊に取り憑かれたかのように、戦争によって精神を深く蝕まれていく。
そして、戦争の最終局面で多くの人々が死にゆくのを目の当たりにし、極限を超えたときに、ついにカミーユの精神は崩壊。遠くで人の乗ったモビルスーツが次々と爆発するたくさんの光を見ては、「綺麗な星だ」と子供のような笑顔で喜ぶ。終戦後、カミーユは精神病患者として介護されながら生活を送ることとなる。
「ホンコンシティの場面」の重要性
さて、冒頭に示したホンコンシティの場面は、以下2つの意味において、本アニメにおいて重要な場面であったと言える。まず、1) 互いに敵同士だと知らずに甘い恋に落ち、そして戦場で殺しあうことになる2人––カミーユとフォウの悲劇の始まりとなったこと。また、2) 歴戦の勇者であり元祖ニュータイプのアムロ・レイが、まだまだ荒削りな新世代のニュータイプであるカミーユ・ビダンの戦いぶりを見て業を煮やし、再び戦場へと向かう契機となったこと。
Zガンダムの悲劇性
上に示したように、ファーストガンダムは、アムロとララァという2人の若いニュータイプ同士による恋と戦争をめぐる悲劇的要素を持っていた。大雑把なたとえで怒られるかもしれないが、それはロミオとジュリエットのように、互いが対立しあう集団に属するために「許されざる恋」となってしまった悲劇(結末はだいぶ異なるが…)。
ただ、ファーストガンダムにおける悲劇性は本来、物語のごく一部を構成する小さな一要素にしかすぎなかった。それと比較すれば、Zガンダムのカミーユとフォウの悲劇は大きく増幅されたものである。さらには、もうひとりの強化人間ロザミアとの戦闘によって、恋愛関係こそなかったものの、それはフォウとの悲劇を執拗にフラッシュバックさせる。
3人のニュータイプ
ティターンズの非人道的な実験によって精神を操られ強化人間とされたフォウ・ムラサメは、戦闘能力の観点からは、人造ニュータイプとも言える。そのため、別の言い方をすれば、この場面は3人のニュータイプがすれ違う瞬間であった。
アムロとララァ、カミーユとフォウ。彼らの物語は、ニュータイプであるがゆえに敵同士惹かれ合った少年と少女の悲劇であった。ララァはアムロに殺され、フォウはカミーユに殺され、カミーユは精神が崩壊し、再び戦場に戻ることはなかった。
では、残ったアムロは…?
アムロにはシャア・アズナブルというライバルがいた。「ガンダム」シリーズを全く見たことがないという人でも、アムロと同じく、シャアの名は、どこかで聞いたことがあるかもしれない。
シャアはララァを戦場に駆り立てた張本人、いわば直属の上司。アムロがララァを殺してしまったのは、アムロの乗るガンダムが、シャアの乗るジオング目掛けてビームサーベルを突きつけた瞬間、シャアをかばって飛び出してきたララァの乗るエルメスを、無残にも機体もろとも突き刺してしまったという経緯があった。つまり、アムロとララァの悲劇の横には、シャアがいた。
また、グリプス戦役(Zガンダムで描かれる戦争)の時には、シャアはクワトロ・バジーナという偽名を使ってエウーゴに所属し、カミーユの先輩パイロットとして活躍した。のみならず、実はカミーユが最初にガンダムMk.Ⅱに搭乗して操縦する場面から、カミーユと行動の多くを共にした。キリマンジャロでフォウがカミーユの腕の中で息を引き取った時も、クワトロ(シャア)はアムロとともにそれを見ていた。
つまり、身もふたもない言い方をしてしまえば、シャアはいつでも狂言回しである。アムロの悲劇においては、ほとんど当事者のひとりであったし、カミーユの悲劇においては、共に行動し、悲劇が繰り返されるかもしれないことを予見しながらも、それを防ぐことができなかった。
劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』では、それから約5年後(宇宙世紀0093)にあった、アムロとシャアの最終決戦が描かれる。
νガンダムを操縦するアムロとサザビーを操縦するシャアとの戦いの末、破れたシャアの脱出ポッドがアムロに捉えられる。地球に向かって落とされたアクシズの軌道を逸らして地球を救った後、ふたりはともに行方不明(連邦軍の公式記録としては死亡扱い)となる。
アムロを再び戦場に向かわせたもの
アムロは結局ララァの敵討ちができたわけではない。というか、そもそもララァを殺したのはアムロ自身であって、シャアは同じ現場に居合わせただけであった。「そして誰もいなくなった」といえば安易ではあるが、誰がなんのために、何を守るために、どうして戦場に駆り立てられてしまったのか。考えれば考えるほど、わからなくなってしまうのがガンダム(特に「Zガンダム」から「逆襲のシャア」)だ。
まとめ:ホンコンシティは悲劇の交わる場所
繰り返しになるが、一年戦争ののち、鬱屈した気持ちのアムロが戦士として再び目覚めてしまったのは、ホンコンシティでカミーユのニュータイプ性に触れたからだ。
ホンコンシティは、カミーユとフォウの悲劇が始まった場所であり、そしてララァとの悲劇をも背追い込んだアムロが結局終わることのない戦いに自ら再び飛び込んでいってしまう悲劇が始まった場所だ。ホンコンシティでの3人の交錯は、このふたつの悲劇が始まり、交わり、もつれ合う瞬間であった。
僕はこの文章の最初に、ホンコンシティでの場面が大好きだといった。
よく考えたら、本当は大嫌いなのかもしれない。
だって、ここが全ての始まりで、おしまいにはみんな死んでしまうのだから。
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